山間の村に暮らす野球少年でした
私の故郷は、宮城県の山間にある旧・稲井村という小さな集落で、いわゆる「へき地」と呼ばれる場所です。現在は合併して石巻市の一部になり、過疎化によって卒業した小学校は廃校になってしまいました。
小・中時代は野球少年で、怪我をすると村の診療所のお世話になっていたのですが、そこの先生は村でたった一人の医師として、全科を診ていましたから、今思えば凄い人だったと感心してしまいます。
石巻で都会を夢見て、防衛医科大学へ
自宅から10km 程離れた「県立石巻高校」に進学し、これまでの自分は本当に狭い世界で生きてきたと悟ったと同時に、「いつか都会に出て一旗挙げたい」という野心を抱くようになりました。製麺業を営む両親は、中学までしか出ていないものの「子どもには思う存分教育を」という方針で、大学進学を応援してくれたのでありがたかったです。
しかし、当時の私は医師を志しておらず、第1志望大学は理学部・物理学科でした。それがなぜ防衛医科大学に進学したのかと言うと、家庭があまり裕福でなかったからです。弟や妹もいたので、無料で授業が受けられる大学を選びました。
今思えば、そのような「自分よりも他人を気にかける姿勢」は、医療従事者に求められる資質なので、もともと医師に向いていたのかもしれません。
どんな状況にも楽しみを見出していました
大学では華やかなキャンパスライフを想像していましたが、母校の特殊な学習環境に驚きの連続でした。医師でありながら幹部自衛官として活躍する人材を育てる学校なので、医学の授業に加えて、部隊の基礎訓練が用意されているのです。特に、「気をつけ」「敬礼」などの基本動作を学ぶ教練の授業はインパクトが大きく、その厳しさに大学を辞めていく学生もいました。
私自身は、どんな状況にも楽しみを見出すタイプなので、なかなか体験できないような訓練にも興味を持ちましたし、全寮制の集団生活を通して多くの仲間をつくり、テニス部の活動にも熱を入れました。また、旅行が好きになり、長期休暇になると見知らぬ土地を訪れて、新しい発見を楽しんだ思い出があります。
医師としての第1ステージは自衛隊医官として
卒後は、学費返済期間として自衛隊で働く義務年限(9年間)が設けられており、陸上・海上・航空自衛隊の中から進路を決めて、幹部候補生学校にて6週間の専門教育を受けます。私は、「制服がかっこいい」という少し不純な動機から、海上自衛隊を選択しました。
遠洋練習航海という5カ月におよぶ幹部候補生の実習カリキュラムでは北米の海を周るコースに医務長として勤務し、1週間ごとにアラスカ・カナダ・アメリカ・パナマ・メキシコ・ハワイなどの各港に立ち寄って現地の軍人の方と親交を深めるという、貴重な経験もしました。
その後は、自衛隊中央病院と、関連の三宿病院の勤務を中心に、定年まで自衛隊医官を勤め上げました。
専門は循環器内科ですが、透析医療には縁があり、被災者支援や、腎臓内科医の不在の時などに携わっていたため、大学の後輩である春日部嬉泉病院の丸山院長より当法人への入職の誘いを受けた際は、医師としての第2ステージにピッタリだと感じました。
そして現在
「大島記念嬉泉病院」の透析患者様は重症な方が大半で、チーム医療を基盤に、多方面から支援しています。
例えば、外来患者様の食生活を支える栄養科の「透析弁当」、身近な看護師による「メンタルケア」、介護知識を身に付けた看護助手による「身体介助」など、病気だけでなく生活全体を支えていることが強みです。
また、当院の名称は、血液透析の普及に尽力した日本腎臓病学会の創設者「大島研三」先生にちなんで名付けられたため、その名に恥じない病院づくりに取り組みたいと考えています。
職員教育には惜しみなく投資していますし、院内に無料託児所を設け、子育て中の働きやすさも応援しています。そして、院長である私自身が心身ともに健康でなければ組織をまとめることはできませんから、健康づくりにゴルフを続けています。
思い通りにボールが飛ばないゴルフは、仕事や人生に通じる部分が多く、運に恵まれないことがあっても、すぐに頭を切り替えることが重要であることを教えてくれるスポーツです。
これからも、コースに潜むリスクを踏まえ、予期せぬ事態にも慌てずに、1打1打の重みを肝に銘じながら病院運営に取り組みたいと思います。